教区報

教区報「あけぼの」

「ツルハシ一振り」 2018年7月号

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ福音書14:6)。教会の逝去者記念(レクイエム)の礼拝でもよく用いられる聖書の一節です。これは、「私たち人間はイエス様の行かれる十字架の道、そのみ跡を歩くことなしにはその命に救いは無いということ。」しかし逆を言えば「イエス様を知り、そのみ跡に従うことにより、どんなにか罪深い私たちであっても、その命をイエス様は天上の家に招いてくださる」という希望に満ちた福音でもあり、宣教の勧めでもあります。イエス様という真理と命の道を歩き、そのみ跡に従って業を行うこと。それはすなわち宣教でもあり、まさにキリスト者の本懐であります。しかしながら自分がこの「イエス様の道」を歩み、その「喜ばれる業」を成すことが出来ているのかと思うと、非常に不安に感じる時があります。特にわたし自身が聖職になってからは、その思いは日々強くなっています。「今わたしが歩んでいる道は、実はとんでもなく見当違いの道を進んでいるのではないか。」「わたしが教会・教区でしている働きも実は何にもなっていないのではないか」と感じる。特に宣教という業は、なかなか目に見えて結果が見えることがないものが多いと感じています。

 

 

そんな時にわたしの目を開いてくれたのが、一つの道の開通でした。わたしは昨年から月に1回山形の米沢聖ヨハネ教会に礼拝奉仕をさせてもらっています。当初は米沢聖ヨハネ教会に行くには片道2時間30分以上かかり、さらに険しい栗子峠も超えなければならず大変な思いをしました。しかし昨年の11月に東北中央道の米沢区間が開通し、一気に45分近くその旅程は短くなり、また安全な道を通ることが出来るようになりました。当初はその安全と便利さを当たり前のように享受していた私ですが、ふとこの道を通すのには全体で30年、工事だけでも20年以上の月日を要したのだと改めて気がついた時に、目先の結果や歩みにクヨクヨしている自分が恥ずかしくなったのです。

 

 

思えば当たり前のことですが、工事を始めた人たちはすぐに道が通るとは思っていない訳です。さらには最初期の人であれば、自分たちの働きの結果を見ることも出来なかったはずです。でも現実にはその人びとの最初の働きが「ツルハシの一振り」が無ければ、道は完成しなかったのです。

 

 

このことに思い至った時に、わたし自身の道も同じなのだと気づかされました。わたしが今進んでいる道もまた、すぐに開通するものでも無ければ、結果が得られるものでもない。しかしその道がイエス様に繋がる道だと信じることによって、その歩みは決して無駄ではないこと。わたしが不安に感じる歩みも必ず「ツルハシの一振り」になっているのだと思えたのです。ましてわたしたちが歩む道は、イエス様が既にその先頭を歩かれているのだから、何も不安に思うことはないのだと。

 

 

わたしたちの教区・教会は皆小さく、その歩みと神様への道を開く宣教の働きは遅く小さいかもしれません。しかしどんなにか小さく見えるそれぞれ働きも、そして祈りも、必ず「ツルハシ一振り」になり、わたしたちを救いに導くのだということ。そしてそれは後に続く全ての人々にとっても、神様への道を助けるものにもなるのだということを覚えたいと思います。

 

 

執事 パウロ 渡部 拓(福島聖ステパノ教会牧師補)