教区報

教区報「あけぼの」

「共 生」2015年3月号

 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」創世記の神様の創造の一節で、少しでも聖書に触れたことのある人なら知っている箇所であると思います。聖書におけるこの創造の一節を、私はこれまであまり気に留めたことはありませんでした。しかし震災の経験と、神学校において、様々な神学に触れるうちに、創造における人のあり方というものについて、思い悩むようになっていったのです。

 

 東日本大震災と津波は、本当に大きな物的・人的被害をもたらしました。その地震と津波による直接の被害ももちろんですが、同様に衝撃を受けたのが福島第一原子力発電所の事故と、その後の放射性物質による汚染でした。地震と津波の脅威が去った後でも残り続ける目に見えない脅威。そして、自然界への影響を考えると、その被害の大きさは想像も出来ません。

 

 そしてこれらの出来事がきっかけとなり、「すべてを支配せよ」という聖書の言葉が、大きな違和感と共に私に迫ってきたわけです。地震という自然の前に為す術も無い人間。あまつさえ、自らが生み出した技術に首を絞められている人間。そんな存在が自然を「支配する」とは、悪い冗談のように感じました。

 

  このようなことがあったので、私の卒業論文のテーマが「創造論」となったことは、自然なことであったように思います。そしてその中で私は、常々違和感を覚えていた創世記の「支配する」ということについて調べました。するとこの言葉を、人間は自然を支配するように神から言われていると受け取り、産業や自然開発への大義名分として解釈され、使われていた時代が続いていたこと。特に日本に於いては、この考えが特に強調されて伝わってしまっていることが分かりました。

 

主はわが牧者 しかし勉強を続けていくと、近年この「支配」という言葉は、「管理」するといった意味や、羊飼いが羊を「牧する」といった意味が強く、好き勝手に支配することでは無いという研究が主流であることも分かったのです。つまり創世記のこの一節の本来の意味は、支配では無く、神様が創造された世界を、責任を持って「管理する」ということであるということです。ですが私は、この「管理」という言葉にも、まだどこか人間が上に立っているような印象を受け、違和感を覚えました。そんな時に目にとまったのが、詩編百四編を扱った研究です。

 

 その研究によると詩編百四編の中では、人間もほかの動物や被造物も同列に扱われており、世界の秩序は「共生」によって成り立つものとして描いていると言っていたのです。この考えは私に、「人間に与えられた世界での立ち位置というものは、世界に対して羊飼いのように世界によりそい、共生するということになるのではないか。そして人間は世界と「共生」するために、少し優れた知恵を与えられているのではないか?」という考えに私を導きました。

 

 こう考えるようになってから、この問題についての見方が、自分の中で少し変わったことを感じています。地震などの自然を前に、人間は多くの部分で何もできませんし、それを止めることもできません。しかしながら、過去の教訓と普段からそれらに対しての知恵をつけることによって減災することが出来るということも事実です。このことは、人間がその知恵を用いて、世界と共生することが出来ることを示しています。

 

 そしてそうであるならば、震災を経験した者として、私たち教会には、「その犠牲と記憶を永遠に知恵として伝え、想起していくこと。」そしてまた、この地上で起こっている問題に関して、「世界と全ての生命が共生するために、神と聖書によって立つ者として『知恵』を発信していくこと。」これらのことが私たちへの道の一つとして、示されているのではないでしょうか。

 

 

あけぼの 2015年3月号より

聖職候補生 パウロ  渡部  拓