教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2026年2月号

今号より「あけぼの」と北海道教区報「北海之光」は巻頭言を共通化します

 

 

巻頭言 「歩き続ける」

 

 

昨年11月17日から21日までの5日間、北海道教区クリスチャンセンター主催の平和ツアーに参加しました。6年ぶりに再開されたツアーの行く先は、長崎と広島でした。歩きに歩いた5日間、お天気にも恵まれて総歩数は66,000歩以上になりました。

 

太平洋戦争敗戦80年を迎えた昨年、一度も長崎、広島の地を訪れたことのなかった私にとって「行って見なければならない。」という思いからこの旅は始まりました。なるべく身軽になって旅をすることを心がけていたものの、心はそれに反比例して日に日に重たくなりました。かつてキリシタン弾圧により多くの仲間たちの命が奪われ、また原爆投下により、生きとし生ける創造物全てのいのちが一瞬のうちに失われた長崎の地。また続く広島の地も同様に、そこに在った全てのいのちが一瞬のうちに地上から消し去られ、また残ったものには原爆被害の痛みと苦しみが負わされていました。苦難は今も続いている。そのことが身にしみました。そしてかの土地に立ったことに、責任を感じました。今も世界中の至る所で同じ悪が繰り広げられています。そのことはどうにかして終わりにしなければならない。でもその道は遠い。そんなことを考えながら遠い目的地まで歩いていた時、同行していた10歳の仲間に「あそこまで遠いね。」と弱音を吐いた時、「でも歩いているから大丈夫!」と元気をいただきました。目的地までいつまでも歩き続けること。そのことが福音であることを確信した出来事でした。

 

思えばイエス様は、ご生涯を通じて歩き続けられました。それは、母マリアの胎に宿られた時から始まります。ガリラヤのナザレに住んでいた父ヨセフは、ユダヤのベツレヘムまでの約110キロある道のりを、住民登録をするため身重のマリアを連れて旅をします。お腹にいたイエス様も一緒です。イエス様が出生された後もさらに旅は続き、ヘロデ王から逃れるためにエジプトに行き故郷に戻る、という壮大な旅をなさいました。

 

成長されたイエス様は、福音を多くの人々に伝えるため、ガリラヤのまちまちを歩いてまわられました。そこで多くの病人を癒し、数々の奇跡を行い、福音を語られました。そして最期には、私たちの罪を贖うために十字架を背負い、ゴルゴダの丘への道のりを歩き通されました。

 

イエス様は出会う人々に「歩きなさい」とおっしゃいます。床に寝かされたままの中風の人に、また死んだはずのヤイロの娘に、そして足の不自由な人に。イエス様の声を聴いた者たちは皆、歩き始めます。そしてイエス様は最期の時に、エルサレムに集まった群衆に向かい「闇に捕らわれることのないように、光のあるうちに歩きなさい。」(ヨハネによる福音書12:35)とおっしゃいました。この「歩く」という言葉には、「生きる」という意味も含まれます。イエス様にとって、「歩くこと」は、「生きること」でありました。

 

東北教区と北海道教区が宣教協働の実践を始めてから早3年になりました。最初に配られたポスターは大変印象深く、砂地を歩む人の足跡が描かれています。上に向かい歩きにくそうではあるものの、その足取りは着実に続いています。主とともに。

 

 

司祭 エリザベト 三浦千晴(北海道教区・聖マーガレット教会牧師、札幌キリスト教会協働)

 

 

 

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あけぼの2026年1月号

巻頭言 新春メッセージ「ほんとうの幸いに至る道を歩もう」

 

 

主を畏れることは知識の初め。無知な者は知恵も諭し侮る。(箴言1:7)

 

知恵に耳を傾け 英知に心を向けるなら
さらに分別に呼びかけ 英知に向かって声を上げ
銀を求めるようにそれを尋ね
隠された宝を求めるようにそれを探すなら
その時、あなたは主を畏れることを見極め 神の知識を見いだすだろう。
(箴言2:2-5)

 

その時、あなたは見極められるようになる
正義と公正と公平が 幸いに至る唯一の道のりであることを。
(箴言2:9)

 

 

新年のお慶びを申し上げます。

 

「2025耳を傾けようキャンペーン」によって、東北教区の信仰は導かれています。年度が改まりましたがが、「耳を傾けよう」は宣教・牧会の基本ですから継続していきます。時が移り、場所を変えても、常に神の声、人々の声、世界の声を聴き続けていきます。箴言は、何に耳を傾け、何を聴こうとすれば神の知識を見出すかを諭しています。神様から与えられる知恵や分別、英知によって、「正義と公正と公平が幸いに至る唯一の道のり」であると見極めるのです。

 

現代は混迷を極めています。自然現象が、そして人による仕業が、すべてのいのちを安泰から遠ざけています。それは片時も休まることを知らないかのようです。ロシアとウクライナの戦争、イスラエルとパレスチナの戦争、他にも多くの国々で紛争が後を絶ちません。キリスト教会は、武器を取り殺戮を繰り返す国と人々に向かって神の正義と公正と公平を説き、「その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す(イザヤ2:4)」よう働きかけるようにと召されている器です。

 

 

2026年3月11日、東日本大震災から15年になります。東日本一体が大地震と巨大津波に襲われて未曾有の被害を経験した東北の人々は、直接の被災の苦しみと復興の名のもとにもたらされている苦労と、今も延々と続く放射能被害に呻き、押さえつけられています。

 

核大惨事で放射性物質が飛散しての被曝、汚染されている現状を国と東電は忘れさせようと仕向けます。被災者たちの初期被曝を否定し、小児甲状腺がん患者428人(2025年11月現在)の原発爆発事故による放射能と発症の因果関係を否認しています。

 

事故後、全国にある原発54基全基が停止しても電力不足は生ぜず火力、水力等で十分賄えました。原発ゼロの方向でしたが、2023年2月、閣議決定のみで原発推進の大転換となり次々と再稼働しています。

 

ALPS処理放射能汚染水の海洋投棄は、東京電力と福島県漁業協同組合連合会との間で交わされた「関係者の理解なしにはいかなる処分も行わない」という約束を、政府が反故にしての決定でした。2023年8月24日から汚染水は美しい太平洋に流され、かつてアメリカのビキニ沖水爆実験で事前通告もなく被曝した太平洋諸島の人たちが猛抗議するも、国は彼らの声を全く無視し続けています。

 

 

このような非人道的行為に対して、キリスト教会はいのちの尊厳を訴えて、両親を目覚めさせ、全人類が「幸いに至る唯一の道」を一緒に歩こうと辛抱強く、愛をもって語りかけるものです。「核といのちは共存できない」と。

 

 

この一年も皆さまが全能の神様に守られ導かれて、主の福音をすべての人々に宣べ伝え、あらゆる意味での解放を宣言してまいれますようにとお祈りいたします。

 

 

教区主教 主教 フランシス 長谷川清純

 

 

 

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あけぼの2025年12月号

巻頭言 「クリスマスメッセージ」

 

 

東北教区の信徒・聖職の皆様に主の御降誕のお祝いを申し上げます。

 

福島県いわき市で生まれ、弘前、盛岡、仙台と大学卒業まで東北教区の皆様には大変お世話になりました。各地で信仰生活をご一緒したことを大変懐かしく思い出しております。今、チーム北国として二教区の宣教協働と新教区設立に向けてご一緒しておりますこと、また初めての「あけぼの」への寄稿を通して東北教区の皆様とお近づきの機会を得ておりますことをとても嬉しく思っております。

 

 

The Holy Family on the Flight into Egypt. Woodcut engraving after a drawing by Julius Schnorr von Carolsfeld (German painter, 1794 – 1872), published 1877.

さて、クリスマスと聞くたびに、いつも思い出すことがあります。それは40年ほど前、難民や移住労働者を支援する集会で用いられた「イエスは避難民だった」という言葉です。このタイトルが思い起こさせるのは、生まれたときから苦難の旅を続けられたキリストの姿です。

 

マタイによる福音書によると、ベツレヘムで主イエスがお生まれになったとき、東方から博士たちが来て、ユダヤ人の王として生まれた方の居場所を尋ねました。それを聞いたヘロデ王は不安を覚え、学者たちを集めて調べさせ、博士たちをベツレヘムへと送り出します。博士たちは星に導かれて幼子イエスの家にたどり着き、礼拝をささげますが、ヘロデのもとへは戻らず、別の道を通って自国へ帰りました。

 

その頃、ヨセフは夢で「ヘロデが幼子を殺そうとしている」とのお告げを受けます。ヨセフは夜のうちにマリアと幼子を連れ、エジプトへと逃れました。

 

ベツレヘムからガザを経てエジプトに至る道のりは、およそ400キロ以上。産後間もない母と幼子との旅は、命がけの旅だったに違いありません。当時エジプトはローマの属州でしたから、厳密には国境を越えるわけではありませんが、3人にとってそれは「命をつなぐための避難」でした。

 

やがて博士たちに裏切られたことを知ったヘロデ王は激怒し、ベツレヘムとその周辺にいる2歳以下の男の子を一人残らず殺すよう命じました。

 

マタイは、この惨劇を預言者エレミヤの言葉でこう記しています。
「ラマで声が聞こえた。激しく泣き、嘆く声が。ラケルはその子らのゆえに泣き、慰められることを拒んだ。子らがもういないのだから。」

 

ラマはヤコブの妻ラケルの墓のある場所です。エレミヤは、捕虜としてバビロンへ連れて行かれる人々を、墓の中からラケルが泣き叫びながら見ている姿として描きました。マタイは、このラケルの涙を、ヘロデ王に子どもを奪われた母たちの嘆きと重ねます。そして、殺された子どもたちと主イエスは、決して遠い存在ではなかったはずです。

 

 

主イエスは、権力者の都合によって命を奪われる人々の中におられます。

 

主イエスは、子を失い、悲しみに泣き叫ぶ母たちの腕の中におられます。

 

クリスマスの物語は、今も世界の至るところで―とりわけ、その物語の舞台であったパレスチナの地において―逃げ惑い、殺されていく人々の中にキリストがおられることを、私たちに静かに告げ知らせています。クリスマスとは、遠い過去の出来事を祝う日ではなく、いまも苦しむ人々のうちにおられる主の声に耳を傾ける日です。

 

 

北海道教区主教 主教 マリア・グレイス 笹森田鶴

 

 

 

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