教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2021年5月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「人生という山」

 

 

人生の歩みはよく山登りにたとえられます。

 

人生がさまざまな経験をしながら一歩ずつ歩むものであるのと同様、登山も一歩ずつ頂上に向かって歩みます。人生はいつも自分の進みたいように進めるわけではなく、入学や就職と言った岐路に立ったときに別の道を進まざるを得ない場合はありますが、山に登るときにも、進みたい道が樹木などで進めず、意に反して回り道を余儀なくされる場合があります。そして、そんな自分の意志に反した道を行ったからこそ生涯の伴侶に出会うことができたり、思いがけない絶景に出逢えたりするのも、人生の歩みと山登りは一緒です。繰り返される日常に埋没して下ばかり向いていると周囲の人の優しさや笑顔に気づけないのと同様、登ることだけに必死になって自分の足下と地面ばかりを見ていると、雄大な景色を見逃すことになりかねません。人生においては、勇気をもって降っていくことや立ち止まることを選択しなければならないことがありますが、登山の場合もいつも上り道とは限らず、頂上に向かうためには下りルートを辿らなければならないことがあります。細く険しい道を通らなければならなかったり、立ちはだかるハードルにゆっくりと歩まねばならない時が人生にはありますが、道の細さや先を歩く人に行く手を阻まれ、思うようにスピードを上げられないことが登山にもあります。

 

思いつくままに挙げただけでも、人生の歩みと山登りが似ているのは間違いなさそうです。

 

しかし登山と、ことに現代人の人生の歩みには相違点もあります。それは登山に際してはこれから登る山そのものについて知ろうとするのに比して、現代人は人生そのものについては深く知ろうとしていないのではという点です。

 

 

私は登山の専門家ではありませんが、おそらく登山に際しては、その山がどこに位置していて、そんな気象条件下にあるのか(天候の変化がおきやすいかどうか)など、ルートや登る手段のみならず、山そのものを深く知らなければなりません。ところが現代人は、自らの人生そのものについて深く掘り下げることにはあまり関心がないのでは、そう思います。自らの人生が、歴史や社会とどのようにつながっているのか、あるいはつながろうとしているのか、人生には悪天候の日もあって当然なのですが、そのための備えとして何をしておく必要があるのか、などといったことにはあまり関心がないように思えるのです。むしろそれよりも、そのコースを選択するのか、それによって見える景色にはどんな違いがあるのかばかりを気にしていると。だからそれを解説した指南本、すなわり「勝ち組になるためには」とか「失敗しない方法」といった類の書を手に取ることに躍起になっているのが現実なのではないでしょうか。

 

人生という山には入学、就職、結婚、親しい友との別れなどたくさんの岐路があります。それら一つ一つは真剣に向き合い決断をしなければならない大切な分岐点ですから必死になって既述の指南本を手に入れることや、その努力をムダだと言うつもりはありません。しかし人生という山そのものを見ずにコースやそこで見える景色ばかりに気をとられていると、希望通りの結果を得られなかったときに、あたかもそれが致命傷であるかの如く意気消沈してしまいます。結果、別の選択や別のルートに用意されている希望までを手放してしまうことになります。依然人生という山に立っていて、山から放り出されたわけではないのにもかかわらず……。

 

マニュアルや手段ではなく、人生という山そのものについて共に考えること、そんな役割も、この時代の宗教=基督の教会にはあるのではないでしょうか。

 

 

仙台基督教会 牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

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あけぼの2021年4月号

巻頭言 イースターメッセージ「イエス様の眼差し」

 

 

新型コロナウイルス感染症が終息に向かう兆しの見えない中、2年目のイースターがめぐってきました。皆様にはいかがお過ごしでしょうか。

 

自分が他の人にうつしてもいけないし、うつされるのも困る「鬱々とした生活」。3密を避け、フィジカル・ディスタンスを取らねばならないことから生じる「交わりが遮られる生活」。すべては私たち一人ひとりの「自粛生活」にかかっていると言われています。

 

このような状態の中で、私たちは喜んで主のご復活をお祝いできるのでしょうか。皆で集まってイースター礼拝をお献げできなかった昨年に比べれば、今年はまだましかもしれません。

 

 

✠2000年前のご復活日の朝✠

 

マルコ福音書第16章は、ご復活の朝の出来事について興味深いことを記しています。

 

「週の初めの日、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った」マグダラのマリアたちは、イエス様を葬った墓の入り口で白い衣を着た若者から「あの方は復活なさって」と喜ばしい知らせを告げられます。しかし彼女たちは「震え上がり、正気を失って・・・誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16・1~8)。

 

この後の10~11節でも、マリアが泣き悲しんでいるイエス様と一緒にいた人々にご復活の事実を知らせても、彼らは信じませんでした。12~13節でも、ご復活のイエス様と出会った二人の弟子が、他の弟子たちにその事実を知らせたけれども、「彼らは二人の言うことも信じなかった」というのです。

 

 

✠主は振り向いて✠

 

皆さんは、ペトロがイエス様のことなど知らないと、三度も否認した物語をご存じのことと思います。ペトロはその前(ルカ22・34)で、イエス様から「あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われます。その直前には「主よ、ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しております」と大見えを切っていたのですが。しかし、いざとなった時、ペトロはイエス様が言われたように三度も知らないと断言してしまい、鶏が鳴きます(ルカ22・54~60)。

 

その直後、61節は「主は振り向いてペトロを見つめられた」と記しています。その時、イエス様はどんな目でペトロを見つめられたのでしょうか。

 

✠私はあなたのために祈った✠

 

ご復活の朝、どの弟子たちもイエス様が十字架に死なれたことで希望を失い、おさき真っ暗で鬱々とし、一緒にいても心はバラバラで誰も信じられない、そんな状態でした。

 

そのような中で、ペトロは一つのことを思い出したのではないでしょうか。それは「振り向いて自分を見つめられたイエスさまの眼差し」です。きっとそれは非難する目つきではなく、優しく暖かい眼差しだったと思います。なぜならイエス様はペトロに「私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22・32)」と祈っていてくださったからです。

 

イエス様はペトロのためだけではなく、すべての弟子たちのために、そして私たち一人ひとりのためにも同じように祈っていてくださいます。

 

そのように祈り続けてくださる主イエス・キリストのご復活を、ご一緒にお祝いいたしましょう。

 

 

教区主教 主教 ヨハネ 吉田 雅人

 

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あけぼの2021年3月号

巻頭言 東日本大震災 10周年メッセージ「共に祈り、共に歩む」

 

 

 今から10年前の3月11日(金)の午後4時前頃、当時ウイリアムス神学館におりました私は、コモンルームから聞こえた「ウォーッ!!」という叫び声に驚き、急いで降りてみますと、テレビの画面には名取市閖上の浜を遡上する白い波と、その先の道を逃げていく自動車が映っていました。その映像から津波の恐ろしさを感じると共に、「無事に逃げ切ってほしい」と、祈るような思いで固唾を呑んでいた自分、何も手助けのできないもどかしさを感じていた自分がいたことを憶えています。

 

 

✠ 10年、私たちの歩み ✠

 

あれから10年の年月が過ぎました。その間、私たちは自らの復興と同時に、管区やご支援くださった多くの教区の皆様がたと共に、「いっしょに歩こう!プロジェクト」、「いっしょに歩こう!パートⅡ だいじに・東北」の働きを通して、4年間、被災者の方々や被災地の復興に、微力ながら思いと力を注いできました。2015年からは「東北教区東日本大震災支援室」、2019年からは「東日本大震災被災者支援プロジェクト」として歩んできました。

 

この間の私たちの歩みを支えてきたもの、私たちの歩みの原動力となったものは、「私たちの隣りに苦しみ悩む人たちがいる限り、『共に祈り、共に歩む』ことが東北に遣わされた教会の姿である」という確信だったと思います。

 

 

✠ 共 に 祈 る こ と ✠

 

「祈り」は、祈るだけで終わるわけではありません。祈りは「行動」への出発点でもあります。

 

祈りは4つの部分、①神への呼びかけ、②神の救いの御業を述べる(感謝)、③祈願、④とりなし(結び)から成っています。私たちは3番目の「祈願」の部分で、「私たちはこうありたい、こうあってほしい」と願います。神様は私たちのこの願いを受け止めてくださり、私たちがそうあれるように促し、勇気づけ、願いの実現に向けての第一歩を踏み出させて下さるのです。

 

そして私たちは「共に祈る」ということを大切にしようとしています。共に祈るためには心と思いを一つにすることが求められます。

 

 

✠ 共 に 歩 む こ と ✠

 

私たちが大切にしようとしているもう一つの点は、「共に歩む」ということです。私たちは各々、歩幅も違いますし、歩く速度も違います。

 

そんな私たちが「共に歩む」ためには、互いの歩き方や速度、歩いていく方向を、互いに感じあい、気配り・目配りしなければなりません。そうでなければ、一緒に歩いているつもりで、いつの間にかバラバラになってしまうかもしれないのです。

 

では、誰に合わせればよいのでしょうか。やはりそれは共に歩んでいる中で、一番ゆっくりの人に合わせることが大切ではないでしょうか。

 

 

✠ も う 一 度 原 点 に ✠

 

大震災から10年の年月が過ぎました。私たちはこれからも「私たちの隣りに苦しみ悩む人がいる限り、『共に祈り、共に歩み』続けていきたい」と思います。それはまさに、ご復活の日の夕方、エルサレムからエマオへ失意のうちに歩いていたクレオパともう一人の弟子に近づき、一緒に歩いてくださったご復活のイエス様、パンを祝福して祈ってくださったイエス様に倣って歩むことではないでしょうか。

 

 

教区主教 主教 ヨハネ 吉田 雅人

 

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