教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2024年4月号

巻頭言 イースターメッセージ 「復活の主と共に日々を生きる」

 

 

以前、新聞の折り込みに「イースターセール」と大書きしたスーパーマーケットのチラシが入ってきたことがあります。日曜日の礼拝後にも話題になり、「テレビのコマーシャルでもイースターセールやってましたよ」と、皆驚いた様子でした。もちろんスーパーが復活日の宣伝をしてくれているわけでなく、クリスマスセールと同様に客寄せのキャッチフレーズだったのでしょうが、思ったほどの効果がなかったのでしょう、翌年には何もなかったと記憶しています。店員さんはお客さんから「イースターって何ですか?」と聞かれて困ったかもしれませんね。それでも「イースターというキリスト教のお祭りがあるんだ」と覚えてくれた人が少しでもいたのならありがたい話ではあります。

 

 

わたしたちはイースターについて、どのように伝えたり、説明したりしているのでしょうか。いろいろな方法があるでしょうが、そこで大切なキーワードは「イエス様のご復活」ということになります。ところが「イエス様のご降誕を祝うのがクリスマスですよ」というと「ああ、それは大事な日ですね」と多くの人が納得してくれるのとは違い、復活というとどうにも反応が微妙です。「はあ、そうなんですね」という言葉の裏には(そんなことあるわけないでしょ)(教会はそんなありもしないことを信じているんだ)という気持ちが透けて見えるような気がしてなりません。だれもが経験したことのないことも、科学的にあり得ないことをすぐに信じることができないのは仕方がありません。完全に命が尽きてしまった存在が再び甦ることはありません。それは常識とか科学とかいう前に、だれもが避けることができない厳然たる事実です。それを打ち破ったのはイエスという方おひとりだけです。そしてそれはキリストを信じる者たちにとって、いつかは死すべきわたしたちも、その復活の命へと招かれるという希望のしるしです。そこにこそキリスト教信仰の神髄があるはずです。そう思いながらも、復活の出来事についていまだにあやふやな自分は何なんだろうと思いめぐらしていると、「待てよ。キリストの目、信仰の目から見たら自分は今生きているといえるのだろうか」という思いが湧いてきました。

 

意識はある。体も動く。それを普通は生きているというのだろうけど、神から与えられた命というものはそれだけのものではないのではないか。そう考えると私だけではなく、たくさんの人が限りある命を精いっぱい生きることができるよう様々な場面で神から力を与えられ、立ち上がらせていただいているのではないか。永遠の命に至る完全な復活とは違うのかもしれないけれど、時には苦しみや悩みで生きながらも死んだようになっていた私たちに、再び希望と力を与えてくださったのはどなただったのか。私たちは今生きている中で、すでに復活の予兆を垣間見ているのではないかと思うのです。キリスト復活の神秘はただ言葉だけでは伝わりません。私たちが経験しているすべての神とのかかわりが、生けるキリストを証しするのです。

 

 

当たり前の話ですが、復活祭はその日一日だけのイベントではもちろんありません。私たちの罪の贖いのためその体を死に渡され、更なる希望を示すために復活されたイエス・キリストをほめたたえ、それぞれの日常を復活されたキリストと共に生きるために遣わされていく、それが復活日であり、それに連なる主日なのだと思います。

 

 

福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 ステパノ 涌井 康福

 

 

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あけぼの2024年3月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「教誨師の働きを通して思うこと」

 

 

私が盛岡聖公会の牧師に就任してから、岩手県にある二つの矯正施設、盛岡少年刑務所並びに盛岡少年院において教誨師活動を続けております。これは、1948年に当時の牧師であった村上秀久司祭教誨師としての働きを始められたことが始まりでそれ以降、歴代の牧師(笹森伸兒司祭、佐藤真実司祭、村上達夫司祭(当時)、佐藤忠男司祭(当時)、中山茂司祭、林国秀司祭)が受け継いできています。

 

前任の林司祭より引き継がせていただいた時は正直不安でした。何せ「刑務所」を訪れたことはこれまでになく、「どのような場所であるのか」「また受刑者とどう向き合い何を話せば良いのだろうか」が全く想像つかなかったからです。

 

加えて当時は新型コロナウイルス感染症真っ只中であったため、私のように新人を対象とした「新人研修」もオンラインでの開催となり、元来行われていた他の教誨師の皆さんとの情報意見交換などが全く出来ませんでしたので、ますますその気持ちは大きくなっていました。

 

そのため少しでも不安を解消したかったのd、前任の林司祭や同じ盛岡市で教誨師をされている日本基督教団の牧師さんに相談にのっていただきました。お二人からは「不安だとは思いますが聖書のみ言葉を信頼して、そして越山司祭の生きた言葉をお話しすれば良いと思いますよ」と助言を頂き、少し気持ちが楽になりました。借り物の言葉ではなく自分の言葉で相手と向き合っていくという「あなた」と「わたし」の関係こそ、主イエスが大切にされたことです。

 

 

そのようなことがあった後に、初めての教誨師としての日を迎えました。用意されていた部屋には一人の受刑者の方が待っておられました。短く自己紹介をしてから一緒に聖書を読み、お話しをしました。

 

大変緊張しましたが、私自身のこれまでの苦しかった経験を語り、そんな時に聖書のみ言葉が自分を支えてくれたことを一生懸命に語りました。話し終わってから感想を聴いてみると「牧師さんもいろいろな経験をされているのですね。少しほっとしました」という声を伺い、私自身も内心安心したしたことを覚えています。

 

 

このように相手に思いが届くという経験は嬉しいものですよね。それ以降、第一火曜日の夕方に盛岡少年刑務所に出向き、盛岡少年院には年に1~2回出向いてお話をさせていただいております。毎回毎回試行錯誤の繰り返しですが、受刑者の皆さんには熱心に聖書のみ言葉に耳を傾けてくださいます。

 

受刑者の方はそれぞれ罪を犯して刑務所に収容されて刑期を過ごしています。そして、その犯してしまった罪を悔やみ、再出発したいと願っておられます。刑務所の職員の方も皆それを心から願い、日々向き合っておられます。教誨師として私が大切にしていることは「み言葉の力を信頼する」ということです。み言葉を通して主イエス様が彼らの心に触れ、彼らに生きる希望を与えてくださることを信じて教誨師活動を続けて参りたいと思います。

 

教誨師活動は私個人ではなく盛岡聖公会の働き、キリストの教会の大切な働きであると思います。どうかお祈りの内にお覚えください。

 

 

盛岡聖公会 牧師 司祭 ステパノ 越山 哲也

 

 

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あけぼの2024年2月号

巻頭言 新年メッセージ 「ガリラヤの地」

 

 

新年明けましておめでとうございます。先月号にクリスマスメッセージが載りましたから、一ヵ月遅れですが今号で新年の御挨拶を申し上げます。

 

しかしながら、元旦夕刻に能登半島地震が発生、2日夕方には羽田空港航空機衝突炎上事故が続き、心痛む、重たい気分の新年となりました。特に能登半島では強い余震が頻発し、日を追うごとに被害の大きさ、深刻さが報道されています。

 

それにしても、当初情報が少なく被害の実態や救援活動の状況が分かりませんでしたから、本当に心細くいたたまれない思いでした。情報が無いというのは人々を不安にさせます。

 

2011年の東日本大震災後被災者支援の先頭に立たれた加藤博道主教は、ある日のメッセージで私たちに「想像力」を要求しました。すなわち、被災地でない地域・遠くにいる人たちは普段どおり生活している訳だけれども、今、被災地にいる・避難所にいる人たちはとっても寒いだろう、腹を空かせているだろう、淋しいだろう、泣いているだろう、痛んでいるだろう、と想像してください、と私たちを諭しました。

 

被災された知らない人たちのことを思うのは難しいことです。しかし身近に関係する要因があれば、思うことが少し可能になります。あおの土地に行ったことがあるとか、そこはあんな風景だったとか、友人があそこにいるとかです。

 

震災後やや時間が経過して、一般人たちが全国から、海外から被災地に来られ、ボランティアをしました。その人たちは、自分の目で見、肌で感じ取ったので、想像しなくても被災された人たちに想いを寄せられました。その時から彼ら彼女らは、被災された方々の隣人になりました。

 

 

マーガレット・パワーズさんの「あしあとFoot prints」という詩で、「私の人生でいちばんつらく、悲しい時」砂の上に残されたあしあとが一つしかなかった、何故と問うと「主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に、あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」と謳います。

 

人生苦難に喘いでいる最中に、イエス様がその人をおんぶしておられる、という最高に有難い真実が、殊更に大きなお恵みが、とてつもなく深い慈愛が告白されています。

 

 

         (岩木山)

2011年、私は震災後一カ月ほど現地を駆け巡って、ご復活の主イエスが言われた「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」、「恐れることはない。きょうだいたちにガリラヤへ行くように」とのお言葉を正に聞かせていただきました。

 

それ故、私たちと常にご一緒におられる主に、私たちが神から遣わされているここ東北というガリラヤでお目にかかれるというものです。私たちと共におられて、苦難の時に背負って歩いてくださり、歩んでくださる主を見つめましょう。今、私たち信仰者は、能登半島地震の被災地にいる皆さまや、ガザの人たちや世界中で被害を受けている人たちの状況・心境を想像してお祈りで繋がりましょう。想像力を持って粘り強く、辛抱強く祈り続けましょう。

 

 

教区主教 主教 フランシス 長谷川 清純

 

 

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