教区報
教区報「あけぼの」
「心の真ん中に」 2018年6月号
新学期が始まり、セントポール幼稚園を卒園した子どもたちは小学校へと、そして園にいる子どもたちは一人ひとりクラスが上ってお兄さん・お姉さんです。今まで助けてもらっていた子たちは、今度はより小さい子どもたちを自分たちなりに助けようと一生懸命です。その瞳はキラキラし、まっすぐ前を向き、自信に溢れている様に感じられます。
私は日々学びとかけがえのない時を与えられております。週報作成や、信徒訪問、電話相談。また主日の説教、誕生礼拝や教師学びの会でのお話しなど、当日の朝まで悩み考えても出てこず、しっくりこないという時もあります。そんな自分に苛立ちと不甲斐なさを覚えたりしますが、何よりも沢山の人との出会いと交わりが私を支えてくれております。
教会、幼稚園の周囲を歩いていると、卒園生が預かり保育のために幼稚園に向かってきます。また一段とお兄さん・お姉さんになった子どもたちに向かって手を振ると、「こう先生、ただいま!」と46歳の自分には少々きついタックルと「ぎゅ~」があります。また、学校で色々なことがあったのか、泣きながら帰って来る子たちもいます。何も言わず、ただ泣くだけ。もう少しで幼稚園だから大丈夫と言うと「ううん、まず教会に行ってお祈りしたい、けんかしたお友だちのためにお祈りしたい」怒りそうになった自分、その友だちのことを嫌いになりそうになった自分、全部含めて神様とお話ししたいと言います。
教会会館の利用を申し込まれる方々がいます。御挨拶に伺うと、地域の高齢の方々の集まりです。すると、「うちの孫が幼稚園でお世話になってます~」、また「いや、自分の娘もお世話になったよ~」といったお話があります。教会の周囲を散歩している時に、いつも見かける散歩するご婦人、ゴミを出す日を懸命に守っておられる方々、その皆さんとお会いする機会を教会の会館で与えられていることに感謝です。
「天の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったイエス様がおられます。私はこのみ言葉に関して清廉潔白でなければと思っておりました。子どもたちが私に向けるまっすぐな目の様に。
でも、思うのです。幼子はだれかの支えがなければ生きてはいけません。食べることに関しても、衣服を着ることに関しても。それは、「誰かに寄り頼む」そして「誰かに見守られている、それを知り、全幅の信頼を寄せているから」ということではないかと思うのです。しかしながら、生を受け、社会の中で、そして様々な問題、そして喧騒の中歩んでおりますと、「自分」が中心になってきます。それはそうでありましょう。だって、「自分」が頑張らないと、ちゃんとしないと、この「社会」では生きていけないのですから。知らないうちに大人は自分以外、沢山の経験や年月を経た自分しか信じられなくなっているのではないでしょうか。
でもイエス様は、「大きな力にみ守られているんだよ。 どこが中心ですか? 心の真ん中に何がありますか?それは神様だよ!」というとっても大切なメッセージを伝えていると思うのです。それを子どもたちの姿に例えたのではないでしょうか。
かけがえのない存在として大切にみ守られている子どもたちが、その受けた思いを伝えている、それが保護者であって、おじいちゃん、おばあちゃんであって、そして地域の人たちであると感じております、それは祈りと交わりの中、その中心に神様がおられるからと思うのです、温かい眼差しで、そして「ぎゅっ~」と。
何が真ん中であるか、その問いへの答えは日々の出会いと交わり、そして何より種を蒔かれた「光の子どもたち」からであります。
主に心から感謝
執事 アタナシウス 佐々木 康一郎