東北教区東日本大震災支援室「だいじに・東北」
メッセージ
「『だいじに・東北』2年の歩み」主教メッセージ『普通の教会ができること―を目指して』
2011年3月11日の東日本大震災発生後、日本聖公会の「いっしょに歩こう!プロジェクト」が正式に立ち上がるまでの約2か月は、まだ最初期の東北教区としての手作りの働き方も続いていた時期であった。それは震災の3日目には始まっていたことで、信徒が徒歩や自転車、また運転の得意な方が運転を担当して、とくに高齢の方たち、被災した信徒を訪ね歩き水や食糧を届け、共に祈っていた。ある意味では「原点」であったが、もちろん限界もあり、この大震災に対しては、日本聖公会全体の取り組みとなるべきと誰もが考え、5月頃から全教区的な働きとしての「いっしょに歩こう!プロジェクト」が立ち上がっていった。一つの大災害に日本聖公会が全体として向き合ったという点で、歴史的な事柄、大きな経験であったと言ってよいと思う。
2年間のプロジェクトが終わり、第2段階の展開として原発・放射能に関する管区の取り組みと、改めて東北教区としての取り組みが始まっていくとき、東北教区として、どのように考え、働いていくのか、改めて問い返すこととなった。
大震災発生直後、仙台市内の牧師たちが声をかけあい、1週間後に会合が開かれた。わたしとしては、いつもの市内の牧師たちが集まって、額を寄せあい「さあ、どうしようか」と話し合うものと思って参加したが、その会場はすでに多くの「プロフェッショナルなボランティア団体」、 支援活動の専門家の方たちで溢れていた。「昨日までアフリカの難民支援に行っていました」「何十台の大型トラックとテントと、大きな資金をすぐに用意できます」というような会話が飛び交った。「凄い」と思うと同時に、東北教区の現実も思いつつ、同じようにはできないということも感じた時であった。
「素人」であること、普通の街の教会(パリッシュ)に何ができるか、とその時から考えてきたように思う。現在の教会は「信徒の働き」を大変重要に考えている。信徒という言葉は、英語では lay、ギリシャ語の「ラオス」がもとにあるが、辞書で引くと、「信徒、素人、普通の人、門外漢」と出てくる。教会の中で、「信徒は素人だ」と言うと響きが適切ではない。むしろ特殊な専門家ではないが、良い意味で普通の人として、生活者として、その地に根ざして現実を生きている人たちと言いたいと思う。特殊な専門家は、特定の能力をもって、ある範囲の中で活躍し、それはなくてはならない存在であるが、同時にそれだけではない、日常に根ざした生活者の感覚が何事にも不可欠である。
「いっしょに歩こう!プロジェクト」も多くは支援活動専門ではない青年信徒が主体であったが、それでも特別の使命をもって、特別の仕方で集まって、一つの事柄に集中した、という意味では「専門的活動・特別活動」であったと思う。
東北教区という、率直に言って、幼稚園・保育園という幼児教育、保育の領域以外では、対社会的な活動の経験が乏しい教区にとって、これからの歩みがいかにして東日本大震災の現実に向き合いつつ、普通の教会として、普通の人として、しかし信仰の深みに触れるような経験を重ねながら、自分たちの属する地域社会と共に生きていくのか。2012年日本聖公会宣教協議会の宣言に即して言えば、教会の「マルトゥリア」(証し)、「ディアコニア」(奉仕)、「コイノニア」(交わり)、そして「レイトゥルギア」(礼拝)の普通の課題として、これからもずっと大震災を覚え続けていく仕方はどのようなものなのかと、それは今も問い続けていることである。そこからは東北の東日本大震災だけではない、各地の災害や、世界の戦争、紛争、多くの人々の苦難と犠牲に対する思いと関心が深まっていく筈と思う。
一方、別の視点からの課題としては、まさに専門性の必要がある。カトリック教会の働きは、教会ももちろんであるが、専門的集団としての「カリタス・ジャパン」、また特別の召命と働き方をすることのできる男女の修道会から大きな力を得ていた。世界のアングリカン・コミュニオンの中にも、災害支援を使命とする専門的な働きが存在する。聖公会は16世紀の宗教改革において、基本的には修道会を廃し、「パリッシュ中心」の教会となったわけで、その大切さと、弱さとが出ているように思える。パリッシュに足を置きながらも、もっと多彩で教会の枠を超えたような働き方も、日本聖公会の中で積極的に考えられてよいのではないだろうか。
上に挙げたこと以外に、この間、思い続けたのは「東北であること」の意味であった。もちろん災害や人間の困窮が持つ「普遍性」もあろう。しかしきっと多くの災害や苦難には、その土地の風土、歴史、地理的条件、環境、人々の文化、気質、社会全体の中での置かれた地域の特性というものがあろう。今はこれ以上展開することは出来ないが、「普遍の教会」(公会)でありつつ、ローカルな教会としての東北教区の可能な使命や特徴や、魅力や課題は何なのだろうかと、これからも考え続けていきたい。
何よりも各地にある多くの信徒、教役者と共に、とくに被災地、福島県に生活し働く方々の、その労苦を思いながら、祈りと働きを続けていきたい。
主教 ヨハネ 加藤博道
(東北教区東日本大震災被災者支援室報告書「だいじに・東北」2年の歩み)