東北教区東日本大震災被災者支援プロジェクト
東日本大震災被災者支援活動について
主のみ名を賛美いたします。
2011年3月11日午後2時46分に東日本大震災が発生してから、満8年がたちました。その間、東北教区は対策本部、支援室を立ち上げ、また日本聖公会全体の取り組みとして「いっしょに歩こう!プロジェクト」、「いっしょに歩こう!パートⅡ だいじに・東北」の働きを通して、4年の間、被災者の方々や被災地の復興に、微力ながら思いと力を注いでまいりました。4年前に「だいじに・東北」の活動を終えるにあたり、私たちの心の到来したのは「まだ終わっていない。終わらせてはいけない」という思いでした。私たちの隣に苦しみ悩む人たちがいる限り、共に祈り、共に歩むことが東北に遣わされた教会の姿であると確信しました。
その確信は、2015年6月にスタートした東北教区東日本大震災支援室の働きに受け継がれました。そして2019年からは「日本聖公会東北教区東日本大震災被災者支援プロジェクト」として、被災者の皆さんに寄り添い続けながら、被災地と被災者の現状を全国に発信し続けようとしています。「共に祈り、共に歩む」小さな働きを継続することこそ、私たち東北教区がイエス様の御跡を踏むことだと信じます。
どうぞ今後とも引き続き、皆様方のお祈りとご支援、ご協力をお願い申し上げます。
2019年3月1日
教区主教 吉田 雅人
主な働き
1.被災地訪問者への協力、案内
教会、学校、グループ等の被災地訪問のお手伝いをしています。
2.お買い物支援
近くに商業施設のない災害公営住宅から、毎週送迎の支援を行なっています。
3.お茶会の開催
仮設_住宅で生活されていた頃から、交流の場としてお茶会の開催を続けています。
4.被災地巡りツアーの開催
東北教区の信徒を対象に、現在被災地がどのような状態にあるのか実際に見ていただくツアーを開催しています。
5.教区大震災関連行事への協力
6.「原発のない世界を求めて」日本聖公会総会決議に関する協力
被災地をご訪問の際、またご計画を立てる際、サポートいたします。
被災地を回る際のモデルコース例を紹介いたします。
下記をご参考に、どうぞご相談ください。
①福島県南部から北部にかけて回るコース
- 小名浜聖テモテ教会
- →原発事故の影響による帰還困難区域(常磐道)
- →新地町・磯山聖ヨハネ教会(礼拝・お茶会参加など)
②原発事故の影響が大きい地域を回るコース
- 浪江町、飯館村など、原発事故の影響による居住制限区域、
- 帰還困難区域
③仙台市近郊の沿岸部を回るコース
- 仙台市若林区荒浜・荒浜小学校(震災遺構)
- →名取市閖上地区(津波被害地域)など
④宮城県気仙沼市・南三陸町を回るコース
- リアスアーク美術館(常設・震災史料展)
- →旧防災庁舎(震災遺構)
- →シャークミュージアム(震災3D記録映像視聴)
- →さんさん商店街など
ご相談、お問い合わせは東北教区教区事務所まで
(当プロジェクトのメールアドレスは廃止となりました)
支援プロジェクトの働きのため、皆様のご協力をお願いいたします。
振込先:七十七銀行 一番町支店
口座名義:宗教法人 日本聖公会東北教区
普通預金 口座番号: 9204792
振込先:ゆうちょ銀行
口座名義:東日本大震災被災者支援プロジェクト
郵便振替 口座番号:02270-7-119647
説 教
東日本大震災13周年記念の祈り(福島聖ステパノ教会)
主教 フランシス 長谷川 清純
いのちの分かち合い
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。どうか、わたしの口の言葉が御心にかない、心の思いが御前に置かれますように アーメン
本日も皆様に神様の祝福がありますように!
2011年3月11日の東日本大震災から13年が経ちました。私たちは各会場教会でそれぞれ礼拝をささげて祈り、ここ福島聖ステパノ教会では、私が対談する形式で片岡輝美さんから「福島からのメッセージ」を聞いて、原発事故後の現況を知らされてキリストを信じる者として、何かしら行動しようとしています。
毎年何処で大規模な自然災害が起きています。今年は1月1日に能登半島地震が発生して私は震えおののきました。瞬間的に、志賀原発はどうなっているか、が頭をよぎりました。大地震と原発事故が絡みます。原発立地地域は日本各地のいわば過疎地であり、同時に大体は震源地近郊でもあります。大地震と津波が起きる度に、私たちはいのちの危険に晒されるているのです。
能登半島地震は半島全域で陸地の隆起があって、輪島市門前町黒島町では4mも地盤隆起しました。液状化も起き、加えてわずか3分後に津波が押し寄せていました。7万5千棟余りが家屋倒壊、道路の寸断があちこちで発生し何カ所も一時孤立地帯となりました。犠牲者は241人、安否不明者7人にも上ります。広範囲に渡って停電となり未だに断水が長期間続き、ライフラインがストップしました。辛うじて避難所に避難された人たちでも、真冬の寒さに震えました。2か月と11日経っても、1万人以上が避難所生活を余儀なくされています。それとは別に、断水している自宅で不自由な生活をされている自宅避難者が4,500人以上にも上っています。大きな不安がいつ解消されるのか見通しが全然立っていません。まさに過酷な状況です。
13年前の東日本大震災では、福島県新地町が早くも5月には仮設住宅に入れましたから避難所生活の期間が2~3か月間でした。それでも大変な気苦労と心労を抱えたのでした。
当日、震災後間もなく緊急支援物資が全国から海外から大量に寄せられました。多くの方々が津波で一切を失ってしまった人たちに対する、何かしたいという差し迫ってくる要請のような気持ちが、そうさせたのでしょう。
そんな中で、私は南三陸町志津川支援に行った際、ある逸話を聞かされました。南三陸町の、とある小さな村の人々の行動の話しを、私は生涯忘れられません。被災地から離れたお隣り集落代表が、海岸沿いで被災し孤立した集落の人たちに、いち早く食べ物を届けるぞ!と決めて、お母さんおばあさん方におにぎりを握らせ、リヤカーに積みました。何せ幹線道路は寸断され通行不能でしたから、裏の細い山道を行くしかありませんでした。決死の覚悟で運びますが、熱々を食べさせたいと考え毛布にくるんで運ばれたおにぎりはやや冷めましたが、大震災翌日には、震えていた被災者の口に入って空腹を凌ぎ、人心地と大きな感激の涙と温かな気分に包まれて感謝が伝えられたのでした!
福島県新地町福田小学校体育館避難所でも、やはり震災の翌日に、津波が到達しなかった周辺地区の住民が、おにぎり味噌汁を差し入れました。農家も多いですからお漬物も野菜も差し出されました。
私たちは、何度もこのような経験を重ねました。栃木県にアジア学院というアジアの人たちのための農業従事者養成学校がありました。大震災後閉鎖になってしまっています。その学校から、卵やお肉が売れなくなっている、必要ないかという情報をもらい、お肉を釜石のとある小さな漁港の集落に宅配しました。クロネコヤマトが奮闘してくれました。新地町にも肉を持って行きました。それまで避難所で食べるカレーは野菜カレーでしたが、その時は肉入りカレーとなって、人々がほんとうに美味しかったと満面の笑みでした。大量の卵も人々に分けて配ってとても喜んでもらいました。
つまりは、寄せ集められた思いやりの心が、人々を満腹にします。寄せ集まった労りのお気持ちがささやかな幸せを生むのです。
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」とイエスさまを試そうとして言ったら、「あなたはどう思うのか?」と、逆にイエスさまに問われた人が、「神を愛し敬い、隣人を自分のように愛すること」と答えると、「正しい答えだ!。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と促されます。行いの人にキリストのいのちが宿るのです。
このいのちを分かち合う人になれますようにと、皆さんお互いに祈り合ってまいりたいと思います。そのような人を神様はお喜びなさいます。
父と子と聖霊のみ名によって アメーン
主教 フランシス 長谷川 清純
(2024年3月11日 福島聖ステパノ教会にて)
メッセージ
「『だいじに・東北』2年の歩み」主教メッセージ『普通の教会ができること―を目指して』
2011年3月11日の東日本大震災発生後、日本聖公会の「いっしょに歩こう!プロジェクト」が正式に立ち上がるまでの約2か月は、まだ最初期の東北教区としての手作りの働き方も続いていた時期であった。それは震災の3日目には始まっていたことで、信徒が徒歩や自転車、また運転の得意な方が運転を担当して、とくに高齢の方たち、被災した信徒を訪ね歩き水や食糧を届け、共に祈っていた。ある意味では「原点」であったが、もちろん限界もあり、この大震災に対しては、日本聖公会全体の取り組みとなるべきと誰もが考え、5月頃から全教区的な働きとしての「いっしょに歩こう!プロジェクト」が立ち上がっていった。一つの大災害に日本聖公会が全体として向き合ったという点で、歴史的な事柄、大きな経験であったと言ってよいと思う。
2年間のプロジェクトが終わり、第2段階の展開として原発・放射能に関する管区の取り組みと、改めて東北教区としての取り組みが始まっていくとき、東北教区として、どのように考え、働いていくのか、改めて問い返すこととなった。
大震災発生直後、仙台市内の牧師たちが声をかけあい、1週間後に会合が開かれた。わたしとしては、いつもの市内の牧師たちが集まって、額を寄せあい「さあ、どうしようか」と話し合うものと思って参加したが、その会場はすでに多くの「プロフェッショナルなボランティア団体」、 支援活動の専門家の方たちで溢れていた。「昨日までアフリカの難民支援に行っていました」「何十台の大型トラックとテントと、大きな資金をすぐに用意できます」というような会話が飛び交った。「凄い」と思うと同時に、東北教区の現実も思いつつ、同じようにはできないということも感じた時であった。
「素人」であること、普通の街の教会(パリッシュ)に何ができるか、とその時から考えてきたように思う。現在の教会は「信徒の働き」を大変重要に考えている。信徒という言葉は、英語では lay、ギリシャ語の「ラオス」がもとにあるが、辞書で引くと、「信徒、素人、普通の人、門外漢」と出てくる。教会の中で、「信徒は素人だ」と言うと響きが適切ではない。むしろ特殊な専門家ではないが、良い意味で普通の人として、生活者として、その地に根ざして現実を生きている人たちと言いたいと思う。特殊な専門家は、特定の能力をもって、ある範囲の中で活躍し、それはなくてはならない存在であるが、同時にそれだけではない、日常に根ざした生活者の感覚が何事にも不可欠である。
「いっしょに歩こう!プロジェクト」も多くは支援活動専門ではない青年信徒が主体であったが、それでも特別の使命をもって、特別の仕方で集まって、一つの事柄に集中した、という意味では「専門的活動・特別活動」であったと思う。
東北教区という、率直に言って、幼稚園・保育園という幼児教育、保育の領域以外では、対社会的な活動の経験が乏しい教区にとって、これからの歩みがいかにして東日本大震災の現実に向き合いつつ、普通の教会として、普通の人として、しかし信仰の深みに触れるような経験を重ねながら、自分たちの属する地域社会と共に生きていくのか。2012年日本聖公会宣教協議会の宣言に即して言えば、教会の「マルトゥリア」(証し)、「ディアコニア」(奉仕)、「コイノニア」(交わり)、そして「レイトゥルギア」(礼拝)の普通の課題として、これからもずっと大震災を覚え続けていく仕方はどのようなものなのかと、それは今も問い続けていることである。そこからは東北の東日本大震災だけではない、各地の災害や、世界の戦争、紛争、多くの人々の苦難と犠牲に対する思いと関心が深まっていく筈と思う。
一方、別の視点からの課題としては、まさに専門性の必要がある。カトリック教会の働きは、教会ももちろんであるが、専門的集団としての「カリタス・ジャパン」、また特別の召命と働き方をすることのできる男女の修道会から大きな力を得ていた。世界のアングリカン・コミュニオンの中にも、災害支援を使命とする専門的な働きが存在する。聖公会は16世紀の宗教改革において、基本的には修道会を廃し、「パリッシュ中心」の教会となったわけで、その大切さと、弱さとが出ているように思える。パリッシュに足を置きながらも、もっと多彩で教会の枠を超えたような働き方も、日本聖公会の中で積極的に考えられてよいのではないだろうか。
上に挙げたこと以外に、この間、思い続けたのは「東北であること」の意味であった。もちろん災害や人間の困窮が持つ「普遍性」もあろう。しかしきっと多くの災害や苦難には、その土地の風土、歴史、地理的条件、環境、人々の文化、気質、社会全体の中での置かれた地域の特性というものがあろう。今はこれ以上展開することは出来ないが、「普遍の教会」(公会)でありつつ、ローカルな教会としての東北教区の可能な使命や特徴や、魅力や課題は何なのだろうかと、これからも考え続けていきたい。
何よりも各地にある多くの信徒、教役者と共に、とくに被災地、福島県に生活し働く方々の、その労苦を思いながら、祈りと働きを続けていきたい。
主教 ヨハネ 加藤博道
(東北教区東日本大震災被災者支援室報告書「だいじに・東北」2年の歩み)