主教室より

主教メッセージ

教会を信じる ―教区主教退任にあたり―

「わたしは神を信じる」あるいは「イエス・キリストを信じる」という信仰告白は言うまでもなく中心的なことですが、「わたしは教会を信じる」という言い方は、あまり馴染みがないと皆様は思われるでしょうか。

 

わたしは東北教区に主教として招かれた時から今まで、「教会を信じて」歩んできた、あるいは走ってきたように思います。別な言い方をすれば「教会を愛して」とも言っていいでしょう。もちろんこの「愛する」は人間関係、夫婦関係においてもそうであるように、お互いに完全無欠で一点の欠けもないから、という愛し方ではなく、そこにある破れや痛みも含めて、時にはお互いに忍耐を強いられることがあったとしても、一緒にやっていこう、というような愛し方であると言えます。それは当然のことと思います。

 

もちろん教会は日本中、世界中にありますが、わたしの人生の中心部分と言っていいこの14年間を思いもかけず東北教区と出会い、皆様と出会って一緒に働いてこられたことをかけがいのないこととして感謝しています。わたし自身の欠点も多く、皆様に忍耐いただいたことも多いと思っています。本当にありがとうございました。

 

2015年秋の定期教区会時に不調となり議長を続けられない状況となって、それ以降、皆様から心配されペースダウンしながら働きを続けてきました。しかしそれで解決することではなく、またやはり今この時、東北教区主教というものをペースダウンして続けていくということではないと決断いたしました。かなりの時間をかけて常置委員会と話し合い、植松誠首座主教はじめ各主教方に意見やアドヴァイスをいただき、ここに至りました。

 

「教区主教退任」であって、日本聖公会聖職としての「退職」ではありませんので、少なくとも定年までの2年強、さらに東北教区において皆様と共に祈り、働く機会も与えられるよう願っています。

 

最初の話に戻りますが、「教会を信じる」という言葉は、実ははっきりと「ニケヤ信経」また「使徒信経」の中に表明されている信仰告白です。ニケヤ信経では「使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます」とあり、使徒信経では「聖なる公会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信じます」とあります。それらは共に「聖霊を信じる」という告白の中に包含されています。

 

「ウナ(一つの)」「サンクタ(聖なる)」「カソリカ(普遍の)」「アポストリカ(使徒的な)」教会を信じる、というのが原語に近い表現です。そしてそれはもちろん三位一体の信仰の中で、聖霊の働きへの信頼の元で語られています。決してただ人間的組織・集団としての教会が完全だと表明しているのではありません。聖霊の働きへの、そしてそれを通しての神と人との、また人間同士の交わりへの信頼なのです。残念ながらわたしたちは「神」を直接見、「主イエス」に直接触れることは出来ません。ですから主の昇天と聖霊降臨の時以来、教会、とくにその礼拝が、目に見える形として神とキリストを伝える「器・道具」となってきました。「教会がサクラメント」であるというのは、現代の比較的新しい理解です。「目に見えない神の恵みの、見える(地上的な)しるし」なのです。

 

わたしはその教会に情熱を懸けて、あるいは賭けてきたと思っています。しかし教会がゴールではありません。その先にある永遠に向けて、教会は開いた扉、風通しのよい窓でなくてはならない、そうありたいと願ってきました。またこれからも願っていきたいと思います。

 

東北教区に集うすべての信徒の皆様、教役者、関係する幼稚園、保育園で働く皆様、教務所、支え続けてくださった一般財団法人白石庵敬神会の関係者の方々、さらに東日本大震災の折も含めて、いつも東北教区と主教の働きのために祈り続けてくださった皆様、この14年間に出会ったすべての方々に感謝を申し上げます。そしてますます豊かな主の祝福のもと、日々新しい思いをもって東北教区、また日本聖公会の歩みが続いていきますよう、心からお祈りいたします。

 

主教 ヨハネ 加藤 博道